家が門徒なんで、親鸞聖人について学びはじめると……。

まあ、タイトル通りの理由なんですが、ウチは真宗大谷派
とはいえ、あまり今まで関心がなかったんですよ。
どちらかといえば、原始仏教よりというか禅系の仏教にシンプルさを感じてそちらのほうに興味を持っていました。
当然、読む本は禅に関しての本の割合が多かったような。

せっかくだからというか、縁もあるんで『歎異抄』をちらっと読んでみました。
親鸞の入門的な本も数冊読んでみました。

やっぱり多くの人に人気があるというか、読まれているだけあって、良いこと云ってますね。(笑)

『歎異抄』は唯円さんが親鸞聖人の言葉をまとめたものなんだけど、そのなかで有名なのが悪人正機説。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というやつですね。

正確には親鸞聖人ではなく、親鸞聖人が法然上人から聞いた言葉。

さきほど、ちらっと入門的な本を数冊読んだ程度と言いました。
そんな浅はかな私の知識でいまの時点で考えると、もしかして全然、的を射ていなくて将来的に黒歴史的発言になってしまう可能性もありますが、あえて書き残して置きます。

これって要するに善人は存在しえず皆悪人だと言ってるようなもんですね。

ここでいう善人とは他人に迷惑を一切かけない自力を押し通せる人。
で、その善人さんを確認したいときは、ぶっちゃけ、手をあげてもらえば良いんです。
「善人さーーん!手をあげてくれますかーー!」って。

でも、その善人さん。
自分がパーフェクトな人間と証明することは無理でしょうね。
これは、古代ギリシアの哲学者ソクラテスの「無知の知」に通じるのではないでしょうか?
自ら善人と思うひとは、悪人であることを知らないだけなのです。

そして阿弥陀如来の本願に徹底するという他力という表現も後押しされます。
他力本願により悪いことをしても救われるのなら、どんなに悪いことをやっても構わないという昔からの意見。
まあ、そのテーマを嘆いたことのひとつとして、取り上げているのが『歎異抄』なのでしょうが。

でも、率先して悪いことをしようとしている時点で、「自力」がはたらいてますよね。
やらなくてよいことを、わざわざやっているわけですから。

また、それを発展させると、世の中の自力は本当に自力足り得るのかという問題が出てくると思います。
人はなにかに必ず頼って生きていかなければならず、その時点で100%自力などありえないからです。
その点で、阿弥陀如来の本願云々のまえに、他力は必ず関わってくるということです。

親鸞聖人の教えをかじった、見当違いの個人的意見になっている可能性もありますが、まあ私見として感じたのはこんな感じです。
もちろん、今後も学び続けた結果、やっぱり自分の最初の思い込み、おかしかったとなるかもしれませんが。
それはそれで面白いはず。

親鸞聖人の著した『教行信証』も読んでいきたいと思います。

あと、せっかくですから門徒として日常勤行の拝読をはじめてみました。
正信念仏偈念仏和讃回向文など。

今はインターネットがありますので、どんな感じで拝読されているのか、実際に耳で聞いて確認できるから便利ですね。
そして、拝読して数日たちましたが、なんか慣れるというかハマったというか、とても良いです。

やっぱり、ある種の歌ですね。
みんなで謡う歌です。
だからこそ、こういうものは普及するのでしょうね。

 

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