説明されるとなんとなくわかった気がする
少し前になりますが、現代アート作家・村上隆氏の講義映像を見る機会がありました。
講義のなかで村上氏は現代アート鑑賞に4つの要点が必要であることを述べています。
4つとは「構図」「圧力」「コンテクスト」「個性」とのこと。
解説を聞いたうえで、あらためて作品の説明を受けると、少なくとも以前よりは現代アートの理解に近づくことはできたと感じました。
ただし、コンテンツ作者がわかりやすく説明できるという例は稀有だと思います。
基本的に最初から理解してもらうことを前提に自分の表現を作品化して披露しているのですから、それに対してさらに本人自身が解説しろというのは厳しい。
本人たちからしてみれば、きちんと表現して見せているのに伝わらないのはなぜとなるでしょう。
例えば「『火垂るの墓』は反戦映画じゃない!映画見ればわかるよね?」と高畑勲監督が言ったところで、そのメッセージが全員に伝わるわけではないようなもんです。
0からの理解は厳しいので、解説という補助が必要だ
あらゆる分野のコンテンツにおいても言えることですが、解説ってとても大切だと思います。
理由は、それがないと理解に困難を生じるから。
面白さを理解するのに時間がかかるから。
そして、せっかくのコンテンツを楽しめないまま、放置されるもったいない危険があるから。
当たり前ですが、楽しみ方を知らないと楽しめないのですよ。
それが伝統ある分野でも同じです。
いくら650年以上続いて芸術として確立し実績のある能楽だって、なにも知らない状態から楽しめと言われても無理なはなしです。
ずっと楽しさを伝える人たちがいたからこそ、続いています。
芸術だろうがスポーツ観戦だろうがアニメ視聴だろうが、楽しめている人とそうでない人の差は、面白さを理解できているかできていないか。
だけど、まったく初見に近いコンテンツに触れて、すぐに面白さを感じろと言っても土台無理な話です。
せいぜい表面的に触れて終わり。
よくわからないけど、まあ楽しめたよという感想を抱いて、他の興味へ移ってしまうでしょう。
それを解消するには、やはり面白さを知っている人の解説にいかに触れさせるかが必要だと感じました。
逆に、解説する人が魅力を伝えることができなければ、そのコンテンツが多くの人たちへ広まり認められていくのは難しいでしょう。
そして先程述べたように、それをコンテンツ作者自身にゆだねてしまうのにも限界が生じると思います。
作っている本人たちですから、最も面白さを知っているのでしょうが、彼らだけに伝える努力を要求するのは、やはり酷なだけです。
もっとわかりやすく作れと言われても、本来表現したかったものと全く別物になっています可能性だってあります。
魅力ある解説のちからがファン獲得へ影響する
現代では文化・芸術のコンテンツが多様化しています。
皆が皆、それぞれのコンテンツに付き合っていられる時間や暇はありません。
そのためには、いかにそのコンテンツの面白さを多くの人に伝えてることができる解説者を確保できるかが、決め手になります。
もちろん偏った解説や、質の悪い解説が少数あるだけでは意味がありません。
複数の質の高い解説者を抱えられることができるかも重要でしょう。
間違ってただの批評家を増やしても、そのコンテンツ普及の足を引っ張るという逆効果になってしまっては意味がありません。
反対に自分にとって新たなジャンルのコンテンツを楽しみたいとおもったら、手っ取り早く解説を求めてみる選択も有効かと。
最初に長時間をそのコンテンツに触れた結果が、けっきょく何が面白いかもわからずに無駄に時間費やしただけというのでは悲しいものです。
時間は有限ですけれど、人類が存続しているかぎり、コンテンツは無限に枝分かれしていってますからね。